2022.06.08

005 市民社会が壊れるとき~ カンボジア、ポル・ポト時代が伝えること

2009年からカンボジアの首都プノンペンに住み始めた私は、同年から本格審理が始まった「カンボジア特別法廷」の、「第1ケース」と呼ばれる審理を、上訴審の判決が下った2012年まで、審理のあった日はほぼ毎回傍聴した。

日本の報道では「ポル・ポト派法廷」ともよばれるこの法廷は、1975年から1979年にかけてカンボジアを支配したポル・ポト派の幹部を、大量虐殺や人道に対する罪などで裁くために開始された。カンボジアの国内法廷であるが、国連との共同運営であり、検察官、弁護士、判事のいずれもがカンボジア人と外国人の混合で構成されている。日本は、法廷の設置と維持にあたり援助をしている主要な国の一つだ。

極端な共産主義で「革命」を目指したポル・ポト元首相の政権下では、カンボジア国内で数百万の人々が命を落とした。資本主義制度が否定され、都市部の人々は農村部へ強制移住させられた。農村部では都市部住民のキャンプが設置され、彼らはわずかな食料で強制労働をさせられた。ろくな医療体制もなく、餓死する人々も多かった。学校は廃止され教育の権利が奪われ、キャンプでは強制結婚が相次いだ。

こうした政策に批判的であったり、日々の暮らしのつらさに文句を言ったりすれば、「革命」の敵とみなされた。落ちていた果物を拾って食べた、溜息をついた、というだけで収容されることもあったという。収容された人たちの多くは、裁判なしで拷問を受け、殺害され、遺体は「処刑場」の穴に放置された。全国各地にあったそのような処刑場は「キリングフィールド」と呼ばれ、今は慰霊塔などが建立されている。

なぜ、ポル・ポト派政権下で、このような残虐な事態が起きたのか。法廷は、その真相に迫ろうと、今も審理を重ねる。「裁判」である以上、被告の刑罰を判定するのが主目的ではあるが、この裁判には、人々の心の闇に刻まれた現代史の深い傷を浮き彫りにし、分析し、記録し、未来への教訓とするという重要な意味もある。

裁判では、ポル・ポト派政権下で被害を受けた人々やその遺族のほかに、いわば「加害」の側に立った元ポル・ポト派の関係者も証言に立った。彼らの証言を丹念に追いかけていると、元ポル・ポト派の関係者の使う言葉には、いくつか共通点があった。

なかでも象徴的だったのは、「他者への無関心」だ。「他人に関心を持たないこと、それだけが自分と家族を守るすべだった」と言った証人もいた。ポル・ポト派政権下では成立間もなくから、「革命」の遂行をめぐり密告と粛清の嵐が吹き荒れた。他人の痛みや苦しみに心を寄せ、「助けたい」などと思えば、自分や家族の命が危なくなる。

元ポル・ポト派の証人の中には、悪名高い政治犯収容所S21(現トゥールスレン虐殺博物館)の関係者もいた。S21では、ポル・ポト派政権下で記録に残るだけで12,000人以上の人々が拷問を受け、やがて命を落とした。看守や拷問の担当者としてそこにいた彼らは、捕らえられた人々の悲鳴、牢獄に詰め込まれて手足をつながれた人々の飢えや渇きを訴える姿を知らないはずはない。しかし彼らは証言で、「直接見た、聞いた、知っている」とは決して言わなかった。人間として耐えられず、記憶から消したのかもしれないが、彼らは「生き延びるために」、その目と耳をふさぎ、知らないふりをせざるを得なかったのだ。

多くがごく普通の農民たちだった元ポル・ポト派の人々を、一方的に責めるつもりはない。自分がその立場だったらどうしただろうか。私はこの話をするときに、常にそれを考えて欲しいと伝える。

他人の痛みや悲しみに無関心であること、それだけがあの時代を生き抜く知恵だった、という言葉を聞いたとき、私は「それが市民社会の終わりなのだ」と、思った。ポル・ポト時代は「1970年代に、アジアの小国に3年8カ月と20日間だけ存在した、特殊な殺戮の時代」ではない。人間が、他者への無関心という心の闇をあらわにするとき、この世界のどこにでも出現する可能性がある社会の姿なのだ、と思った。

私が、他者の痛みや悲しみや苦しみに関心を失ったとき、目を閉じ、耳をふさいだとき、そこにどんな社会が現れるのか。ポル・ポト時代はそれをまざまざと見せつけている。(写真は、カンボジア特別法廷の様子。出典:ECCC https://www.eccc.gov.kh/en)