2022.06.12

006 「国際社会」という言葉をどう理解するのか

「国際社会(international society)」という言葉。日本国憲法の前文はもちろん、ニュース番組、教科書、書籍、映画などの様々な媒体を通じて、多くの人々が日常的に接している表現である。

THINK Lobby のコラム<001「ロシア非難」に悩む各国>において、国際社会が「便利だが、それがだれを指すのか、何を示すのか」について留意しなければならないという指摘があった 。ここでは、ロシアのウクライナ侵攻を1つの契機として、いま改めて注目が集まっているこの「国際社会」という言葉に焦点をあて、その概念的な理解を試みたい。

なぜ概念的な理解が必要かというと、国際社会とは、直接目に見えるものではないからである。国際社会が実態として存在すると言えるのは、人々がそのように考え、その言葉に意味を込めて話をする時、そして、その言葉に基づいて行動する時だけである。いわば人々の認識と、人々の共有するイメージによって国際社会という概念が形作られる。政策決定者などが国際社会という言葉を――特に何かしらの集合的意志を示す際に――用いる時、少なくとも 本人のなかには、その言葉に関する何かしらのイメージが存在することになる。それではその言葉の持つイメージに対して、どのようにアプローチすれば良いのか。

1つの方法は「社会」という言葉に注目することである。国際関係の舞台を国際「社会」と呼ぶ以上、そこには共通利益や規範はもちろんのこと、守られるべきルールやそうした要素を実現するための諸制度の存在を示唆する。そうでなければ、わざわざ国際関係の舞台を「社会」――一定の目標に基づく秩序体系が成立する場所――と呼ぶ必要はない。もっとも国際社会の構成員が多様で立体的である以上、その社会におけるさまざまな約束事は限りなく幅広く、また時には矛盾を抱えている。

主権及び領土の尊重、外交の推進、同盟の締結、国際法の遵守といった歴史的に積み重ねられてきた約束事から、人権、環境問題、国際協力、責任ある統治など、比較的最近に重視され始めたものまで、実に様々なルール、制度、利益や規範が国際社会という言葉のなかで共存する。この社会においてどのような価値を重視し、どのような枠組みに基づいてそれらを推進するべきなのか。これまで国際連合、G7/C7、G20/C20といった、さまざまな国際的な枠組みにおいて、国際社会の特徴やあるべき姿を巡る議論が数多く行われてきた。

もちろん国際社会という言葉に基づき、これまで取り組まれてきた行動全てが、世界に前向きな結果をもたらした訳ではない。一部の利益や価値を実現するために、その名が便宜的に用いられる時もあった。国際社会という言葉は、肯定的な文脈でも、否定的な文脈でも使用される、多くの価値判断が含まれる表現である。

もう1つの方法は国際社会の構成員に注目することである。誰が国際社会の構成員なのか。言い換えれば、国際社会と呼ばれる舞台の約束事を実現するにあたって「責任を負うべき主体」は誰なのだろうか。一般には国家がその代表格だろう。かつて国際社会とは国家が所属するクラブのようなものであると、考えられた時代もあった。しかし、現代の国際社会において、そのような主権国家間の横並びの関係のみが、国際社会の約束事を律するすべてではない。現代の国際社会では、国際機構、企業、NGOs、地方自治体などの様々なアクターが、少なからずその動向に影響を与えている。

その意味では「国際」社会における国際という言葉――文字通りに解釈すれば「国家同士の交わり」――をそのまま受け取るべきではない。世界の在り方に責任を負うべき主体の範囲は限りなく広がってきたし、今後も拡大し続けるだろう。そしてより重要なことは、国際社会の構成員とは究極的には市民一人ひとりである。市民一人ひとりの行動が、直接的あるいは間接的な形で――時には国家という媒体を通じて――国際社会のルールや制度に影響を与え続けていることに、自覚的であることが求められる。

国際社会とは、人々のレンズや文脈、その言葉に込められた意味によって異なって映ってしまう厄介な概念である。歴史を紐解いてみれば、国際社会という言葉が、その基礎的な共通理解を除けば、地理的な意味や規範的な意味でひとつの世界を意味することは、ほとんどなかった。だからこそ我々は、国際社会が内包する価値やその特徴について、より注意を払わなければならない。国際社会という言葉が用いられたとき、誰を主要な構成員として位置づけるのか、逆に言えば、誰を周辺化するのか。そして、どの価値や利益を反映した結果なのか、見過ごされている声は何なのか。この聞こえの良い、便利な言葉を耳にした時こそ、その言葉が発せられた背景に、思いを巡らせなければならない。