2022.08.01

013 ミャンマー軍部、民主派活動家を処刑/死の際で求めた「本と辞書と眼鏡の差し入れ」

ミャンマーでは、クーデターで実権を握った国軍による国民への弾圧が続いている。7月下旬には、捕らえていた民主派活動家4人の死刑を執行した。また、7月31日には、現地での抗議運動を取材していたとみられる日本人男性が拘束された。国内外でどんなに非難を浴びてもやまぬ国軍の蛮行に、憤りと無力感が募る。

処刑されたある活動家の母親(76)の話が、タイを拠点に情報発信をする英字メディア「イラワジ」に掲載されていたので紹介したい。イラワジによると、死刑が執行されたのは7月23日。母親はその前日、ビデオ電話を通じて獄中の息子と会話をした。その時、息子は母に差し入れを依頼した。「本と、辞書と、読書用の眼鏡が欲しい」。2人はこの時、それがまさか最後の会話になるとは思いもしなかっただろう。互いに何も知らされないまま、息子は翌日、命を奪われ、家族は遺体を引き取ることすら許されていないという。

ミャンマー国軍は、今年6月には4人に対する死刑宣告を発表しており、彼らはいつ処刑されてもおかしくない状態にあった。ただ、同国でこれまでの数十年間、死刑は執行されていなかったとのことで、実際に執行されるかどうか半信半疑だったかもしれない。もっともミャンマーでは、死刑ではなくても、昨年2月のクーデター以降、2000人を超える人々が民主化を求める運動の中で命を奪われている。民主化を求めて声を上げる人々は、常に死を覚悟しなければならない状況だろう。

死刑宣告を受けた彼らの心情を、容易にはかり知ることはできない。希望と失望が無数に繰り返されたに違いない。私はその中で、彼が「書物を求めた」ということに、強く心を打たれた。それが何の本だったのかは分からないが、いつ命を絶たれてもおかしくない状況下で、彼は何らかの「知」を求めたということだ。身体の自由を奪われ、生きる権利さえ軍部の手中に握られた彼が、せめて自らの内にある精神を「知」によって解き放とうとしたのだろうか。「知」を求めることは、生きることだ。

ミャンマー国軍は、国として加盟する東南アジア諸国連合(ASEAN)にさえ正式な政権として認められていない。8月上旬までの間、カンボジアではASEAN閣僚会議が開かれているが、今回の死刑執行でさらに孤立は深まるだろう。しかし世界を見渡すと、「孤立」した国々が連携する動きも見え始めた。「民主主義」という価値観を軸にして世界を分けようとする気配もある。それらが、暴力や独裁を認める国々にとって逆に追い風にはなってはいないか。ミャンマー国軍の暴走を見るにつけ、民主主義は政治的なイデオロギーではなく、普遍的な価値として存在しなくてはならないのではないか、と考える。

だからこそ、死の際にあっても書物を求めた「彼」の姿を忘れたくはない。そこに、一人ひとりが知の力を信じ、正しく、深く根付かせることで暴力に立ち向かって欲しい、という願いを感じた。この世に生き残った私は、考えること、学ぶことを決してやめてはいけない。借り物の言葉や論理ではなく、己の思想を拠り所にせよ、という厳しい、命がけの叱責を浴びた思いだ。