2022.09.20

020 「普通」でいること

取材というのは本当に難しい。「取材」というと、記者の仕事に限定されて考えられがちだが、たぶん多くの仕事に取材の要素はある。接客、営業、マーケティング、調査など、向き合う相手の情報を得る、という意味では多くの人が日常的に使っているスキルだろう。もしかしたら、仕事以外でも、「相手を知る」という意味ではコミュニケーションのすべてが取材といえるかもしれない。

だから奥深く、難しく、何度やっても失敗をする。

2000年代の初め、タイのメコン川沿いの村に、HIV感染症の取材に行ったことがある。当時まだHIV感染症は「不治の病」との認識が広がっており、患者は社会的に差別の対象にもなっていた。自分が患者であることを隠して暮らしている人たちもいたため、取材は容易ではなかったが、その時の取材対象者は周囲にも病気のことを公表していた女性だったので、取材に伺うことにした。

彼女の職業は農業で、家庭内の感染だったとみられる。小さな子供がいた、と記憶している。約束の時間に家に着くと彼女は畑に出ていた。家族が呼んで来てくれるというので、しばらく待った。やがて、小柄な女性がやってきて、私はインタビューを始めた。

私は彼女の日常について尋ねた。体調はどうか、気を付けていることは何か、不安に思うことは何か、周囲の人々との関係は変わったか……。当時の社会事情から、感染者本人に話を聴けることは珍しかったので、私は勢い込んでいたに違いない。

しかし彼女の答えは、多くの場合、「普通です」のひと言だった。体調は普通、周りの人との関係も普通、自分の気持ちも普通。自分勝手な話だが、「取材を受けてくれたのに、本当のことを話してくれないのだろうか」といういらだちが私の声や表情に現れてしまったのだろう、「そうですか」と、不満げに黙ってしまった私に彼女は言った。「普通でいたいんです」。

その言葉に私ははっとした。私は感染者の苦悩を伝えたいという私の事情にのみ関心を寄せ、彼女が「どうありたいか」を思いやることがなかった。治療薬も十分にないころ、社会的にも差別され、不安でないわけがない。苦しくないわけがない。でも、自宅で家族と暮らす彼女は、「普通でいること」で不安や苦しみを何とか乗り越えようとしている。彼女の「普通です」という言葉に込められた思いの深さと、感染者をステレオタイプな型にはめて伝えようと必死だった自分の浅はかさに、私はとても恥ずかしい思いをした。

コミュニケーションは時に誘導的になる。自分の考えを伝えるだけでなく、意図したことを引き出したいという誘惑にかられる。向き合った相手の中にあるものを引き出すのは、重要なことだ。しかし、引き出したつもりでいて、実は相手が自分の期待に合わせてくれただけ、という誘導尋問をしてはいないだろうか。

結論を急がず、決めつけをせず、まずは無心で相手や対象物に向き合うことから始めたい。――そう思うが、なかなかできないものである。生涯、勉強だ。

(ウィークリーコラムは個人の見解に基づく記事であり、THINK Lobbyの見解を示すものではありません)