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2023年05月08日(月)

開発協力大綱改定で考える、国益と国際協力の関係

若林 秀樹

4月28日、参議院の「政府開発援助等及び沖縄・北方問題に関する特別委員会(以降、特別委員会)」で、開発協力大綱改定のあり方について参考人として発言し、その後、8人の委員(参議院議員)との質疑が行われた。他の参考人は、有識者懇談会座長であった京都大学教授の中西寛氏、東大東洋文化研究所教授の佐藤仁氏、それから国連食糧計画(WFP)日本事務所代表の焼家直絵氏の計4人だった。参考人の発言後、質疑が2時間にわたって続いた。通常の委員会とは違って、質問の事前通告はなく、緊張の連続であった。

振り返ると1993年4月、在米日本大使館に書記官(ODA担当)として着任して、ちょうど30年が経った。当時、ODAについて何の知識もなかった自分だったが、毎日送られてくる公電(形式上は外務大臣からの大使への電報)の要請内容に沿って、アメリカ国務省や米国開発援助庁(USAID)等の官僚と面会して質問したり、意見交換したりして、その結果を電報で返す仕事が続いた。その後、労組、国会議員、NGO等、立場が違っても、何らかの形で開発協力に関わってきたことを思い返し、「特別委員会」ではその30年の思いの丈を述べた。一人のNGO職員というよりも、様々な立場を経験した自分として、世界の平和と安定に向けた日本の役割は何なのか、オールジャパンの視点で発言となった。

1990年代、日本は世界でもダントツのODAを誇るトップドナーだった。他国のODAが、「援助疲れ」で横ばい、もしくは下がる傾向にあった時、日本だけが右肩上がりだった。日本国内ではバブルは崩壊していたが、米国の経常赤字等で、円レートは1995年に瞬間値で1ドル=79円を記録した。その頃は、「国際協力は何となくいいものだ」という雰囲気が日本社会にはあった。NGOの設立数が一番多かったのも90年代だった。当時からODAは円借款の比率が高かったが、受注企業は日本ではなく、外国企業が大半だった。ある意味、日本政府はおおらかだった。

日本は2000年までトップドナーだったが、以後はODA予算が下がり、同時に「国益論」が首をもたげてきた。特に2012年第2次安倍内閣の頃から、その傾向が強まったと言え、様々なODA政策の文書の前面に、国益重視の視点が記載されるようになった。

ODAが税金で成り立っている以上、広い意味で国益を考えるのは当然である。ODAが有効に活用されて「開発途上国」等が繫栄し、平和な世の中になれば、結果として我が国の利益につながるのである。しかし、予算書や開発協力大綱の中で「国益」の実現を全面に掲げているのをみると、そもそもの国際協力は何のために存在するのか、その意義が問われかねないと思う。

日本のODAは、1954年に国際機関であった「コロンボ・プラン」に加盟してから開始された。ODAは、いわば戦後の日本が国際社会に復帰するためのパスポートという側面もあった。日本も、戦後の復興や経済発展の過程で多くの支援を海外から受けた。新幹線の建設も、世界銀行から融資を受けて実現し、返済が終わったのはそんなに昔のことではない。

「国益論」の中には、与党・自民党の基本的な政治姿勢が見え隠れする。「国益重視」、「安全保障の確保」を記載しないと、各省の予算確保が難しいとも言われている。ODA予算が伸びない中で、2023年度は防衛予算が大幅に増額され、その勢いにのって、外務省でも、安全保障能力強化支援(OSA:Official Security Assistance)を設けることになった。外務省は今後、このOSAを突破口に、安全保障強化の観点から予算を確保していくのであろうか?

ODAの国際目標であるGNI比0.7%は、開発協力大綱案の中では「念頭に置く」とだけ、ある。有識者懇談会の報告書にある「今後、10年でGNI比0.7%を達成する」という記述から大きく後退した。

短期的な外交目的や国益の達成の手段として、「開発協力」を扱うことは慎むべきである。開発協力は本来、「人びとの暮らしの向上」、「人間の安全保障」を第一義的な目的とすべきであり、その目的の達成を通じて、日本の国益が達成することを、改めて肝に銘じてほしい。

注)JANICが外務省に提出した開発協力大綱改定に関する意見は、以下のURLを参照してください。

https://thinklobby.org/news_events/05082023pubcom/

 

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